葬儀とは

 人の死は、いつどのような形で訪れるかわかりません。「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」との蓮如上人のお示しは、まさに「無常」という私の命の姿そのものなのです。これは大変厳しい現実であり、自らの命が無常の淵に立たされたとき、絶望を感じずにはいられないでしょうし、愛すべきもののことを考えたとき悲しみに打ちひしがれることでしょう。状況はさまざまでしょうが、なぜそのような心情が起こるのでしょうか。それは煩悩ゆえに「無常」という道理をわきまえることのできない私に原因があるのです。しかし、「無明煩悩われらが身にみちみちて、(中略)臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず(『一念多念証文』)」と親鸞聖人がおっしゃるように、最後のその時まで、「生」に執らわれ苦しまなければならないのが私なのです。

 そんな「生」に執らわれ、死の現実から目を逸らせがちな私に、一つのけじめとして死を受け入れさせ、一歩前に進む契機を与えるのが「葬送儀礼」です。特に浄土真宗においては、お念仏という阿弥陀仏のお慈悲の中で死と向き合い、人の「死」を単なるいのちの終わりでおわらせることなく、「仏」という普遍的な価値をもって関わり続ける存在として、残されたものが受け止めていくための儀式と言えるでしょう。それによって、悲しみや悔恨の情を超えて、それぞれの人生の次の一歩を踏み出すことができるようになるのです。しかしそれは決して一朝一夕に成ることではありません。段階を踏んで、時間をかけてお聴聞を繰り返していくことが大切です。

葬儀の流れ
①まずは寺への連絡

 身近な方がお亡くなりになったときは、まずはお寺にご連絡してください。稀ではありますが、先に葬儀屋と相談して葬儀の日程などを決定してから寺にご連絡される方がおられますが、都合がつかない場合、日程を変更しなければならないことになってしまいます。くれぐれも、まず寺にご連絡をしていただいて、お急ぎの場合はその際に通夜、葬儀の日程をご相談ください。お急ぎでなければ、臨終勤行に伺った際に相談させていただきます。

②臨終勤行

 臨終勤行とは、本来、命が終わろうとするときに臨んで、これまでの仏祖への報恩感謝の儀式として本人が執り行う勤行です。しかし実際にはそれを行うことはできないので、住職が代わって、親族とともにお勤めをします。他宗では「枕経」といい、故人の枕元で「追善供養」のお勤めをすることもありますが、浄土真宗では、「枕経」という言葉は用いず、お勤めも枕元ではなく、お仏壇の前で行います。

③通夜勤行

 一般に「お通夜」とよばれ、葬場勤行までの夜毎に、遺族をはじめ、有縁の方々が仏前に集い、夜を通して行う仏事です。近年、都市部では、通夜を省略して、亡くなってすぐに葬儀ということがあるそうですが、特に、葬場勤行前夜は、亡き方のお姿とじっくりと向き合える最後の夜です。通夜のご縁は、故人の死を厳粛に受け止め、あらためて私の人生の、いのちのありようを問いながら、仏法を聞かせていただく場として大切にしていただきたいものです。

④葬場勤行

 一般に「葬儀」「葬式」とよばれ、遺族をはじめ有縁の方々が集まって、葬場において行う仏事であり、葬場において、故人の死を厳粛に受け止め、故人を縁として一人ひとりが真実のみ教えに遇う大切な法縁です。また、本来は自宅から葬場へと出棺する際の「出棺勤行」を、「葬場勤行」の直前に勤める場合が多くあります。

⑤火屋勤行

 火葬場において、ご遺体を火葬する前に執り行うお勤めをいいます。故人のご遺体の最後の瞬間を迎えるにあたって行うものです。

⑥還骨勤行

 「還骨」とは火葬場から遺骨を持ち還るという意です。火葬を終えて、収骨されたご遺骨を自宅へとお迎えしてお勤めをします。お勤めの後は、御文章「白骨章」を拝読し、「葬送儀礼」の最後に改めて人のいのちの「無常」に思いをいたすのです。

 なお、近年、初七日法要を葬儀と同日に勤める(繰上げ初七日)ことが増えてきて、「還骨勤行」と「初七日法要」を混同されることが多くなっていますが、性顯寺では原則として「初七日法要」は亡くなった日から数えて七日目の当たりの日に勤め、「葬送儀礼」の締めくくりはあくまでも「還骨勤行」としています。

⑦中陰法要

 「葬送儀礼」の次の段階となるのが「中陰法要」です。「中陰」とは亡くなった日から数え四十九日間のことで、その間に七日ごとに初七日、二七日・・・七七日(満中陰)と法要を勤めます。一般に、七七日(満中陰)は忌明法要として、有縁の方が集い丁重に勤めます。また、中陰の間は床の間などに中陰壇を設置しお荘厳をしますが、お勤めはお仏壇の前で行います。